80歳超えレンタカーで世界一周一人旅

▲▲無酸素登頂登山家 鈴木孝雄の山登り https//yeti2.muragon.com▲

チリのプエルトナタレの民泊で、ラム肉(子羊)の丸焼きで大歓待!!

前日に、ウシュアイアから飛行機で、又エルカラファテに戻り定宿になっているホステルに泊まる。


3/29 アルゼンチンエルカラファテからチリのプエルト・ナタレスへバスの旅


 パイネ国立のプエルト・ナタレスへは、6時間ほどのバスの旅である。前日にバスターミナルでチケットを買っておく。
途中に、アルゼンチンからチリへの入国のイミグレーションがある。レンタカーの一人旅と違いねスリルが無くつまらない。


3/30
宿は、ホステルと言っても民泊の部屋貸しです。ヤット探し当てたら、留守で誰も居ず鍵が掛かってる。近くの道路て働いている人に電話をしていただき、やっと部屋に入れる。最近は、自分の電話はローミングするのでお金が掛かるから使わない。言葉も喋れないから、近くにいる人に、その人の電話で連絡して貰う。家主が来たが、支払いはUS$と書いてあるのに、チリペソでと言う。一人部屋の三泊分、65$の内、60$は米ドルで、残りはチリペソで、手を打つ
私しか泊まっていないが、感じが悪いなと思いつつ、朝六時にトーレス・デル・パイネにトレッキングに出掛け。ヘトヘトで夜の十時に帰る。シャワーでもと思っていると、あの感じの悪かった奥さんが、ラム肉を焼いたから一緒に食べないかと招待される。
お腹ペコペコで、何を作ろうかと思っていたところで、渡りに船である。
庭で子羊を一頭丸焼きにしている。六時間かかって準備したようです。
親戚三家族も揃っての宴会である。ビールに、最近日本でも安く手に入るようになった、美味しいチリワイン。
乾杯に次ぐ乾杯。ラム肉は塩のみで味付けしてあり、とても柔らかく、甘くて美味しい。生涯で丸焼きは初めてである。
初対面では、なんと不愉快なオーナーだと思っていましたが、初対面だけでは判らないものですね。
昨年の、コーカサス旅行の、アルメニアでもあちこちで、何回がご馳走になりましたが、こんな接待は嬉しいですね。
これも、シニアの一人旅の功罪か。


      チリプエルトナタレ子羊丸焼き接待

     六時間かけて、庭で子羊の丸焼き


    私が帰るのを、夜の十時まで待っていてくれた

      みんなで手分けしてね手際よく仕上げる



      三世代、三家族揃っての歓迎である。

  生まれて初めてラム肉でお腹いっぱいである。美味しかった

        美味しいチリワインをたらふく戴く。
日本人のシニアの一人旅は、誘う方も安全なためか至る所で混ぜていただき、只飲み、只喰いにあずかる。

地球上で人が住む最南端の地であり、南極に一番近い街ウシュアイア


アルゼンチンの最南端の街であり(最近はもっと南に村が出来た)、チリとの国境の町であり、南極との距離は約1000キロメートルです。カラファテからはバスの便もあるが、曜日によっては二日掛かるので飛行機で来ました。


ウシュアイアの気温は年間を通して、冷涼な気温で夏でも最大12度程度なので、上着は必須です。風も強く、天気が目まぐるしく変わり,ヤッケは手放せません。南半球では、11月から3月が夏にあたり、ウシュアイアの観光のハイシーズンの終わりとなっています。
20世紀前半には、町は凶悪犯の流刑地となっていた歴史があります。現在はパタゴニア観光と南極観光の拠点として一年を通して、たくさんの観光客で賑わっています。日本の網走もそうですが、受刑者に北海道開発の道路を過酷の条件の中で造らせた様に、ここでも同じような事が。

            元監獄


ウシュアイアからフエゴ国立公園へは、世界の果て鉄道という異名を持つ列車に乗って移動しまいた。世界最南端の鉄道で、元々は刑務所を作る木材を運搬するために使われていました。赤い機関車に引っ張られる緑色の車両が印象的なトロッコ列車です。地震で全壊したのを観光用に復活させたものですから、街には入っていなくて、郊外まで出掛けなくては乗れない。

    世界の果て号 小一時間ほどゆっくり走り、終点で降りました。


        世界最南端の郵便局


そこから小一時間歩いて、世界最南端の郵便局に行き、手紙を出すのが通だとか。みんなバスで行きましたが、歩くバカは私だけでした。。歩いて正解、郵便局には長蛇の列で入れなかったとか。わたくしが着いた頃には空いていました。
ノルウェーの最北端のノールカップでも、皆さんは絵葉書を出していましたね。なんとここでも、日本の赤い郵便ポストが有る。


   ティエラ・デル・フエゴ国立公園へトレッキング
最南端の郵便局からティエラ・デル・フエゴ国立公園まで五時間のトレッキング。
数人しかいなくて気持ちのいいトレッキング

         矢張り南極に近いのですね。

帰りはヒッチハイクで
帰りはヒッチハイクで、ウシュアイアの街へ戻る。
その車に乗ったら「あら あなたは私のベッドの下の人だと云う」そういえば日本人がいるなと思っていたが、わたくしは、海外に来ると何となく日本人は避ける癖が有る。
話を聞くと、何と私の家から五キロほどの街に住んでいる若いお嬢さんでした。奇遇ですね。


3/26           ビーグル水道へツアーに参加
フェゴ島とナバリノ島、オスデ島とを隔てる海峡がビーグル水道。大西洋と太平洋を結ぶ海峡でもあり、アルゼンチンとチリの国境でもある。観光船のツアーに参加して、島々を眺めペンギンやアザラシを見る。上陸して先住民の生活した跡を見学する。

この極寒の街ですが、昔の人は裸で外出する生活をしていたとか。何故かと云うと、気象の変化が激しくて、すぐに雨になり衣類が濡れるからだそうです。


3/27
最果ての街ウシュアイア、搭乗時間を午前と午後を間違える!!



6:20の飛行機に乗るのに、目覚めたら5:10、慌ててホステルのフロントに行きタクシーを呼んで貰う。空港まで7km程である。運転手に急がせるが、空港の手前で道路が閉鎖されて、パトカーが止めてある。検問所らしき物が有るのだが、お巡りさんはクラクションを鳴らしても出てこない。良いからと、隙間をぬって通り過ごさせる。二十分前で間に合ったと思い、一安心して空港に入る。電気は付いているが誰もいない。田舎の空港だからな思いながら、急いでチェックインカウンターへ。あれー ここにも誰もいない。電気も付いていない。
こんな早いフライトのお客は居ないので、中で休んでいるのかなと、オフイスらしきものをノックしてみる。返事もなくシンとしている。
ここで、初めて電光掲示板を見てみると、私の乗るフライトが無い。搭乗券を見直してみるが、矢張りない。そんなことが有るのかと良く見てみると、電光掲示板の下の方に、私の乗る18:20 EL Calafateとある。便名も一致する。12時間違うのである。フライト時間が変わることは良くあるが、その時はメールが来る。チケットの予約表を虫眼鏡でよく見てみるとなんと、6:20 pmと書いてあるではないか。pmが見え無かった、と云うか当然24時間表示と思い込んでいる(18:20)。こんな小さい字は読めないよ。矢張りシニアグラスが必要な歳になったんですね。もう腹立たしいやら。此処の空港の一番気が飛ぶ8:20まで、誰も来ない?  レストランも、売店も空いていないし、


12時間もここでは待てないので、とりあえず元のホステルに帰り、朝食を食べてから考えようとしました。ところが、Uberがうまく動かない。電話も判らず、タクシーが呼べない。おろおろしている間にカウンターが開く。
早速フライト時間の変更をして貰う。10:30のフライトに変更出来て、1800円の追加料金。とんでもない出費である。朝食もせずに来たので、レストランで。アルゼンチンはインフレが進んでおり、物価は高い。


そういえば、一昨年もスペインのカナリヤヤ諸島へ行った帰り、フライトの日にちを一か月間違えて予約していた。この時は変更できずに新しいチケットを買う羽目になった。大雑把な性格で、何回失敗しても懲りない大バカ者でして  笑い
乗る飛行機が来ました。

パタゴニア「フィッロイ」登山「逆さフィッロイの奇跡」



3/22 
早朝ホルヘ・ニューベリー国内空港へバスで出掛ける。
08:30のフライトでパタゴニアのエル・カラファテに飛ぶ。空港から町には交通機関が無いので、乗り合いバスを予約しておいた。



7/22 
エルカラファテから、フィツロイの登山口のエル・チャルテンに約三時間で到着するバスが数社出ている。時間と値段を聞いて回り、好きなバスに乗ればよい。
街の入り口で降ろされて、フィツロイの案内所へ寄り、展示物と登山の注意事項のレクチャーを受ける。


3/23        フィツロイ登山




夜中の三時に出発して、日の出をフィツロイで迎えて、朝焼けのフィツロイを見る予定で早く寝る。朝の二時に起きたら、なんと雨が降っている。なにしおう気象変化の厳しい山の牙をむき出した。予備日が作って有るのでね気持ちを切り替えて眠りにつく。四時に目が覚めたので、耳を澄ますと雨音がしない。慌てて支度をして、そのまま歩きだす。街を外れ登山道に入ると暗く、ヘッドライトで歩く。




思ったよりもきつく登山道である。二時間ほど歩くと、空が白々としてきた。走るように急ぐが息が上がってくる。木々の間に先端が朝日で燃え上がったフィツロイが見えてきた。



これでは間に合わないと諦めの境地になった時、目前にキャンプ場に続く池に、フィッロイが逆さまに映った、朝焼け逆さのフィッロイの雄姿が見えるではないか。



全くの軌跡 日の出の瞬間に晴れていて、風が無いことが条件



正に奇跡の、逆さモルゲンロートのフィツロイである。
81年間の間に、世界中の絶景を見てきたが、これほどに感動したのは初めてである。もう、思い残すことは無いこのまま死んでも良いと思ったくらいである。
しばらく見ていたが、氷河まで更に二時間歩く。最後の一時間は傾斜もきつく完全な登山である。ここに来るまで誰とも会わなかったが、テント場から来た人たちがこの絶景の前でくつろいでいた。



    何度も何度も振り返りながら、登山口に急ぐ。


3/24  
     フィツロイのミニトレッキング Mir Torreへ
フィツロイのの夜間登山の予備日として、半日確保してあったので、バスが出るまでの間トレッキングに出掛ける。


朝から良い天気で、宿のレストランから朝焼けのフィツロイが目前に見える。もう至福のひと時である。十一時のバスに乗るまでの間、行けるだけ行ってみる。終着はMir Maestriで4~5時間位である。小一時間歩くと、次から次にと絶景がのぞき引き返す勇気がそがれる。
遂にタイムリミット、後ろ髪を引かれる思いで皆と別れ帰路につく。こちらは気軽な人気コースの様で、次から次にと登ってくる。


       宿からの朝焼け風景



バスの時間が心配で一時間半程登ったところで諦めて、後ろ髪を引かれる思いで帰路に就く。


バスに三時間揺られて、今回の旅行で三回、都合五日間泊まったFOLK。朝食付きで2000円である。バスターミナルにも近くお気に入りである。

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パタゴニア フィッツ・ロイ南西稜を登った登った唯一の日本人
フィツロイの登攀には幾つものルートが有るが、御覧の通り垂直の岩で手がかりは何もない。岩場にたどり着くにも、氷の壁でアイスクライミングである。この難ルートをこともあろうに単独で、それもなんと厳冬期の7月に登頂した男が居る。気温-30℃、常に30m/sの強風という極限状態での登攀だった。世界中でも数人しかいない。凍傷で手足の指を夫婦そろって無くした、日本のトップクライマーの山野井氏である。一切スボサーを付けず、登攀の自慢すらしない奇特な、これぞ山男である。奥さんの妙子さんも全く同じ性格で、日本人の女性で8000m峰のバリエーションルートを遠藤由香(私とガッシャブルムⅡ峰を一緒に登った仲間)と登った唯一の日本人。ソ連時代にコミュニズム峰7495mを登りに行ったときに、私とは別の隊の隊長の妙子さんと一緒でしたが、余分なことは一切喋らない控えめに人でした。減圧室でトレーニングした仲間でもある。
こんな素晴らしい山を見ていると、若きとき、と言っても五十代の頃が走馬灯のように頭を過る。


   国立公園事務所に有った写真。

アルゼンチン 南米五カ国一人旅 '19 3/19 ~4/22

南米放浪の旅に来ています  3/19 ~4/23


南米は道路が悪く、国境越えは特に悪く大変で、四駆でないと無理である。その四駆もなかなか借りられないとのことで、レンタカードライブは諦める。公共交通機関にしても鉄道は整備されていなく、長距離バスでの移動が主体である。バスは二階建てとかでリクライニングシートも素晴らしいとのことであるが、国境越えは殆ど夜行バスになる。昨年のコーカサスでは四回夜行列車を使ったが快適であったので、思い切って利用することにした。それでも、飛行機での移動が六回にもなる。チケット代もバカにならず、南米往復分近く掛かる。
思い付きで見切り発車したツケは大きい。
三十年前の、トロント経由を思い出し、ESTAを先ずとった。処が、安チケットを手に入れたら、KLMでオランダ経由で不要になってしまった。


ブエノスアイレス編  3/19~3/21

    左が空港 道路を渡り右に行くとTienda Leon社のバス乗り場が有る。


ブエノスアイレスには二つ空港あり、国際線はエセイサ国際空港である。
治安のよくないブエノスアイレス空港から市内へは、タクシーで行くように勧められている。しかし、空港で両替していてそれほどでもないと判断して、バスで市内へ行くことにする。バス乗り場を訪ねたら、$10くれたら教えてやると云う。矢張り敷居が高い。他の人に聞くと、普通は空港から出て目の前にあるのに、ここは一寸離れていた。
バスは、タクシーよりは交通事故に安全で、安いのが良い


サンマルティン広場の近くにバスは着く。5月広場の近くの予約のホテルまで⒈キロほど歩く。
途中で明日の、ホルヘニューベリー国内空港へのバスの予約をしていく。

    ブエノスアイレス一番の人気場所のカミニートへパスを買って、バスで出掛ける

        矢張りタンゴですね

カミニートの一角を出ると、下町で物凄く治安が悪い。
迷い込みそうになると、お巡りさんが警告してくれる。従って、ここにいる間は安全だと、ビールを頂く。

            国会議事堂


         ジャガランダがまだ咲いていた

      南米のパリと言われるが、矢張り美人は多い

市内最古のカフェトルトーニ  有名人の集まる店で、店内は博物館の様になっている。

      日本人と判ると、店員が記念撮影に来てくれる。


パタゴニアに行った後で。もう一度ブエノスアイレスに戻った時に、ここの地下でアルゼンチンタンゴショーを見に来た。

キューバ一周バックパッカーの旅'19.7/5~7/12

7/5
メキシコシティに一泊二日の観光をして、18:30発の飛行機でキューバに22:30に着いた。キューバ空港で出国審査で、カーナビ没収の攻防戦。


夜の十時半に着いて、入国審査は順調にいったが、荷物検査で引っ掛かる。最近は横着してコンピュータをザックに入れたまま検査を通る。半分くらい開けろと言われてから出す。ぴっちりと入れてあるので出しにくいのですよね。今回は若い女の子で引っ掛かり、他のものも出せと言う。赤福餅を興味ありげに見て、薬は入っていないかとしっつこく聞かれる。そのうちにカーナビを見つけ、タブレットと言えばいいのにGPSと言った。さっと取り上げて、これは持ち込めないと言う。メキシコで使うだけで有ると言ってもきかない。ここは譲れない。パスポートよりも大事で絶対に譲れない。彼女の手から取り上げてザックにしまう。なんたかんだでラチガ開かずに、大きな荷物を一つ一つチエックしている別の列の最後尾に並ばされる。山と積まれた衣類を調べている列で、朝まで掛かりそうである。何度も、こっちは一つのザックだとアピールしたお陰で、ヤット別に呼ばれる。又同じ繰り返しでらちが明かない。今度は妥協して帰国まで預かりにすると云う。書類を作る段階で上司らしき人が来て、何故か無罪放免で荷物検査は終了してヤット、パスポートは返され入国できた。彼女の不服そうな顔が印象的でした。こんなに遅くなって宿に入れるか心配です。
タクシーが35CUCと言って寄ってくる。私は20CUC(二千円)と言う、最終25と言うが譲らない。その交渉を聞いていた別の運転手が、友達の迎えに来ていた人で、相乗りで20CUC(二千円)で良いと言う。ホテルに電話して確実に入れることを条件にお願いする。大分大回りをして、深夜のハバナ中を回った感じです。運転手の奮闘で、起こしてくれて深夜の宿に入れる。

7/6      モロ要塞(世界遺産)      
バス停の近くと思って予約したのに、何とバス停ではなくスーパーであった。不便な所で仕方なくタクシーを呼んで、モロ要塞へ行く。

             
カテドラルへ海底トンネルを歩いて渡る予定でしたが、要塞の前で客待ちしていたクラシックカーに乗りカテドラルまで行く。

               旧国会議事堂


22:00のViatulの夜行バスで、キューバの東の端のサンティアゴ・デ・クーパまで行く。


        16時間乗る夜行バス  中国製で心配したが、何とか無事に
7/7  サンティアゴ・デ・クーパ
16時間の長距離夜行バスで、お昼過ぎの12:45にサンティアゴ・デ・クーパに着く。
モロ要塞行くタクシーを探す。勧誘が激しいが高いので、相乗りを探してもらう。しばらく待って、市街地に行く二人連れの女性が見つかり、途中で女性を下ろし、モロ要塞まで10km行き、見学が終わるまで待たせて、宿まで送って貰う。

7/8
宿からローカルバスで、モンカダ兵営博物館へ。

    モンカダ兵営博物館 キューバ革命の火蓋を切った、記念すべき場所

革命広場へバイクタクシーで行く。初めての経験でしたが、ヘルメットを貸してくれて、安くて速い。


夜行バス19:30 ⇒トリニティへ07:15
7/9 

          ロマンティコ博物館

7/11 ロス・インヘニオス渓谷とマナカ・イスカ  世界遺産




         サトキビ畑の労働者を監視するための、監視塔


      サトキビを運んでいた蒸気機関車でイスナガへ

           サトキビのジュースを


            革命広場へ


7/11  バスでトリニータからハバナに戻る。日本の青年にバスで合う